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具体的事例集

2012/05/13

学級通信の底力 耳からの情報を聞き取るのが苦手な生徒たち

  ときおり「口で言っただけでは話が伝わりにくい」と感じる生徒に出会います。学校では、1日の行動についてほとんどの連絡が口頭で行われます。話を聞き取ることができない生徒たちにしてみると「今日、これから自分はどんなことをしなければいけないのか、今日なにがあるのかわからない」ことになります。今、自分の置かれている環境がわからないのです。「学校が怖い」「人が怖い」という漠然とした不安感は「自分が居る環境がわからない」ことがかなり影響しているように感じます。
 この春、担任をもつことになった新入生の経歴を調べると、小学校あるいは中学校で年間30日以上欠席していた生徒が7割を越えていました。中学校へ1日も行ってない生徒も居ます。「全日制に行きたかったが、欠席数が多すぎて受け入れてもらえないし、たとえ行っても続ける自信がない」という生徒たちが定時制に入学してきます。「定時制は基礎から教えてくれるから」と再起をかける生徒も多数居ます。しかし、ハードルは高く「夕方から始まって、9時に終わる授業」、人数が少ないとはいえ「苦手な集団生活」に適応しなければなりません。担任として1年目の課題はこの生徒たちを定時制という特殊な環境になじませること、軟着陸させることでした。

 「動物は自分を取り巻く環境を把握することができれば、安心し落ち着いた行動ができます。人間だって同じはずである」と考え、そのためにするべきことは生徒に 「定時制という環境」「学校の姿勢」「HRの運営者である担任の考え方」「毎日するべき行動」「近日中の行事」を毎日確実に伝えることでした。
 5分足らずのSHRで伝えるには情報量が多すぎますので毎日「学級通信」を発行し続け、一人でも多くの生徒をつなぎ止めておいて、脱落しそうになる生徒を個別指導で引っ張り上げることにしました。生徒たちの「今度こそ」という意気込みを頼りに軟着陸させようとしたのです。

 この学級通信の効果は私が想像した以上のものがありました。5月11日現在「入学以来無欠席」が続いています。11日に保護者の方と話す機会がありました。皆さんから「中学校には行けなかったのに、今は楽しそうに通学しています」「積極性がでてきました」「家庭内でも素直になったように思います」と嬉しい話を聞くことができました。

 過去の担任でも学級通信は作っていましたが、保護者に学校でのできごとを伝えるのが主な目的で、ほとんど春夏秋冬の季刊になっていました。自分の中に「口頭で連絡すれば済むことだし、担任の考えや人柄は毎日接しているからわかるだろう。わざわざ時間を割いて学級通信をつくるのは無駄である」という考えがあったからです。
 今私は時間をかけて学級通信を作っています。

2012/05/07

不登校事例を書き留めることの意味

 このサイトは2004年に立ち上げました。高校で新しい生徒を担任したときにあまりにも不登校の生徒が多かったことに驚き、その経過記録をまとめた指導資料が基になっています。、
 時が流れて2010年に自分の子どもが不登校に陥りました。今度は親として不登校に立ち向かうことになりました。当たり前の話ですが、不登校に決定的な解決方法はありません。多くの親がそうであるように「何が悪かったのか」「甘やかして育ててしまった」「学校の中に問題がある」「携帯電話とメールが気力を削いでいる」など色々な原因を考え、迷い、怒り、不安に翻弄されながら過ごす日々が続きました。「居場所を作れば直る」「不登校は悪いことじゃない」などカウンセリング的なアドバイスも、的を射ているとは思えず結局「どれも間違ってるし、どれも正しい」と考えることにしました。ただ、不登校の本人も揺らぎ、家族も揺らいだとき、多くの事例は台風に遭ったときの海図の役割を果たしてくれました。
 ここには、自分で記録したもののほか、掲示板に寄せられた体験や、時には寄せられた批判もあります。それらは今、不登校の渦中にいる本人、家族の方々にきっと参考になると信じています。

2012/04/10

今日は入学式

 今日は入学式、私は一年生の担任です。定時制で担任を持つのは初めてです。私自身、昨年定時制に転勤して色々なとまどいを感じました。暗くなってからの授業、10時という遅い下校時間、夕食が給食であることなど生活リズムの変化が大きく、イライラしてそれが表情に出てしまったことが何度もありました。

 1年目の担任の仕事は夜間定時制という仕組みの中に生徒達をゆっくりとなじませること、軟着陸させることです。ただでさえ不安定な十代半ばの時期にこの生活はかなり辛いことでしょう。できれば「全日制に行きたかった」という気持ちをすべての生徒がもっています。しかし、「貧困や家庭の崩壊」「小中学校時代に不登校になってしまった」「全日制の高校を退学してしまった」など、複雑な事情を抱えて、彼らは定時制を選択しました。それは受験競争を勝ち抜いて進学校に合格するのと正反対の状況です。進学校に合格するというのは、家庭が経済的にしっかりしており、学校に通うことができ、保護者がしっかりとその生徒の面倒をみているからこそできることです。生徒の能力もありますが、環境的な要因が大きいように思います。

 定時制に入学してくる生徒達の共通点は、ハンディキャップを背負いながらも「失った自信を取り戻したい」「やり直したい」「今度こそ」という気持ちを持っていることです。私たちの使命は、彼らの「今度こそ」という気持ちを大切にし、社会で生きるために必要な知識を精一杯伝えて送り出してやることだと思います。

 面接のときの印象、中学校からの内申書や写真から「きっとこんな感じの生徒たちだろう」と想像しながら、今夜の出会いを待っています。

 

2011/11/21

通信制単位制併用の学校

 娘を連れて、不登校生徒を対象にした教育を展開している札幌の池上学院さんとクラーク国際高校さんを見学しました。どちらも、細かい配慮が行き届いていて人間関係が苦手な生徒にとっては通いやすいだろうという印象を受けました。ただし、授業料がかなり高いので通える人はそんなに多くないでしょう。進学者の割合が多いのは経済的にしっかりした家庭の生徒が多いからだと思います。
 気になったことが一つ、グランド、体育館や調理室といった施設がないことです。池上学院さんには講堂のような小さな体育館がありました。「体を動かすのが苦手という生徒さんが多いので、ここがいっぱいになるということもありません」とのことでした。

 私自身も今は定時制に勤務をしていて、様々な理由から全日制高校に行けなかった生徒を教えていますが、たしかに体を動かすのが苦手な生徒が多いと思います。別の見方をすると気分転換が下手なんだと思います。
 どうしようもない絶望感に襲われ、先が全く見えないとき、思い切り汗を流して体をいじめると「あーすっきりした。」という気持ちと「何であんなに落ち込んでたんだろう」という気持ちがわき上がってくるのを誰しも経験していると思います。それができないのはかなり辛いことでしょう。

 あらためて学校教育とは何かを考えさせられました。「高校卒業資格」を得るだけなら「高卒認定試験」が近道だし、何を勉強して良いかわからないなら「通信制」で指導をうけるのがいいでしょう。大学合格を目標にするだけなら、高卒認定と予備校通いがもっとも効率的ではないかと思います。

 娘が「自分と同じくらいの年の人が集まるところへ行きたい」と言いました。何のために学校に通うのか、あらためて考えさせられました。北星余市のホームページに次のような一文があります。

1988年、本校は、奇跡的に廃校の危機から脱出し、現在では、全国からやってくる高校中退者、または、小中学校時代「不登校・登校拒否」をしていても"他のみんなと同じように高校に行きたい"という生徒を、その意欲を認めて受け入れている。」

 

2008/11/24

発達障害を抱えた偉人たち

 制度をいろいろいじってだんだんダメになっていってるのが現在の日本の教育ではないだろうか。普段は教育なんて考えたこともない人たちが思いつきで制度をいじりダメにしていく。しかも、まったく責任をとらない。尻ぬぐいをするのはいつも現場だ。現在の日本の教育改革は無責任改革である。

 そんな中で高機能自閉症やADHD、LDといった発達障がいに光があたったのは画期的なできごとだと感じる。20年以上も教員を続けているが、その中では最も革命的なできごとのように思える。多くの人たちの生活の質をあげることができるだろう。 

 実は私もADHD傾向があって、じっと人の話を聞いてられない。自分が何かを思い詰めると周囲の人が言ってることがわからなくなることがよくある。多かれ少なかれ人はそういう傾向をもっているのではないだろうか。それが社会生活に支障をきたすほどになったとき、発達障がいとよばれる。

 悪いことばかりかというとそうでもない。大きな仕事をした人の中に発達障がいを抱えた人が多い。アインシュタイン、ピカソ、ビル・ゲイツ・・・。天は二物を与えずというが、かれらは人の気持ちや場の雰囲気を理解する能力を失ったのと引き替えに人並み外れた集中力を身につけたのだろう。

 そう考えると発達障がいは一つの個性だ。周囲と強調する能力を取るか、他を排除した集中力や芸術的な感性を取るか迷った末に後者を選んで生まれてきたのであろう。

 問題はその高い能力を発揮する以前に協調性の欠如で社会から叩かれてしまうことだ。社会との戦いはほぼ一方的な敗戦に終わる。このため無気力や反抗といった二次障害を発生してしまう事が多い。

 この二次障がいを防ぎ、生活の質を高めることこそ特別支援教育の役割だろう。北海道伊達高等養護学校でコーディネーターをつとめる村松先生によれば、今年度は市内全域の保育園で授業観察を行い、発達障がいを持つ生徒の早期発見を試みるという。早い段階で自分の困難を知り、対処していくことで生きにくさを少しでも解消できればという願いがそこにある。期待したい。

発達障がい抱える生徒

 以前掲載した「Mさんからのメール」を受け取ったことは私にとって大きな出来事だった。問題児に対する見方がおおきく変わった。「いつ人を怒らせるかわからない恐怖」という言葉が印象に残った。教員から見れば「何度言ってもわからない奴」「人の気持ちがわからないわがままな生徒」でその原因は親の躾の甘さである。そう思って過去の出来事を思い出せば色々なことが思い当たった。

 関わり合う大人を怒らせる生徒がいた。会話の時の音量がコントロールできず、いつも大きな声で話しており、その声が嫌だった。注意をすると一瞬怯えるが、やがて反感と敵意に満ちた目でにらみ返してきた。その態度が私の神経を逆撫でした。「何だその態度は!」何度怒鳴ったことだろう。「こんな態度を許すと他の生徒に与える影響も大きく、絶対に許してはいけない」そう思った。

 会話に割り込んでくることが多かったため「今は君が話す時じゃない」と制止したことが何度かあったが、彼はそれをそっくり真似して、他の教員に言った。言われた方は当然激怒した。「人をバカにするにもほどがある」怒りの矛先は、彼を躾けることができない担任の私にも向けられていた。

  彼を呼んで「何回言ったらわかるんだ」と話したら「注意しても直らないから、仕方がない」という答えが返ってきた。いつもの反抗ではなく困り切っていた。あらためて小さい頃からの出来事をきけば、「保育所では怒られなかった日は一日だけだった」「両親にも怒られてばかりだ」「中学校の時は先生があきらめた」と。褒められた記憶がほとんどないようだった。それでもグレもせずここまできたのは母親の愛情があったからだろう。大人に対しては何をしても「怒られる」という恐怖感が先に立つようだった。

 職員会議で、彼が発達障がいを抱える生徒であることを告げ配慮をお願いしたが、高校ではまだ認知されておらず、どこまで効果があるかは疑問だった。

 彼の困難を知ったことで一番大きく変わったのは彼自身だ。相変わらず大人を怒らせるが、激しいやりとりはなくなった。自分が抱える困難を把握したおかげで精神的な余裕が生まれたようだ。それは私も同じで、ヒステリックに怒鳴りつけることもなくなった。

支援員って何?

 妻が4月から「支援員」として、市内の小学校で働いている。娘が小学生の時にお世話になった先生が現在は別の学校で校長先生をしておられ、その縁で依頼されたものだ。
 「支援員?」不勉強な私は何のことかわからず、聞き返してしまった。妻は結婚前はOL、結婚してからは専業主婦だった。教員免許こそ持っているが「ペーパーライセンス」である。「大丈夫だろうか?」と不安がる妻に「大丈夫だと思うから頼んできたんだと思う」と励まし(?)て受諾させた。

 そして、現在に至るが妻は未だに「私の仕事は何?」と悩む日々が続いている。発達障がいを持つ二人の生徒の支援を目的にしているが、その立場は微妙だ。TTではなく、支援というところが難しい。

 「XX君が、なかなかできなかったので手伝ったら担任の先生がXX君に自分でやりなさいって言ってやり直しさせたの。かわいそうだし、申し訳なかった」
 「○○先生が、外してくれっていうから教室に入れなくてほとんど仕事しなかった」
という日々が続き、妻も妻の愚痴を聞かされる私もストレスが積み上がっていった。

 子どもを躾けたいという担任と、困った生徒を援助しなければいけないという支援員の立場が相反するものになっていた。

 支援員というネーミングから特別支援教育が生み出した制度であることは想像がついたが仕事内容がよくわからなかった。学校からもどういう立場で動けばいいのか特に説明はなかったという。つまり、支援員とは何かよく知っている人がほとんどいないものと思われた。

 同じ仕事をしているはずなのに仕事内容が違う人もいた。特に対象となる生徒はおらず、担任や他の教員が困ったときに援助に回るという役割に徹している学校もある。例えば、教室をとびだして走り回る生徒を追いかけるような仕事に徹している場合もある。

 毎年11月に全道合同教研があり、近年は理科分科会に参加していたが、今年は疑問を解くために障がい児教育の分科会に出席して聞いてきた。だいたい次のようなものらしい。
(1) 昨年(2007年)の5月から実施された制度である。
(2) 特にこういう仕事という限定はされていないが、十勝では教科指導はできない(TTはできない) と いう縛りがある。
(3) 障がい児を普通学級に通学させる場合に生じる困難に対応するために配置されている。
(4) 一校あたり100万円の予算が地方交付税として国から配分されている。
(5) 各学校での仕事内容(支援員の役割)はコーディネーターが中心となってまとめる。
(6) 地方では支援員の確保に著しい困難があり、教員の妻が働いている場合が多い。
聞くと「なるほど」と思うものばかりだ。

 なお、文部科学省初等中等教育局特別支援教育課から「特別支援教育支援員」を活用するためにという題名で次のようなパンフレットが配布されている。

 小・中学校に在籍する発達障害を含む障害のある子どもたちを適切に支援す
ることが求められていますが、教師のマンパワーだけでは十分な支援が困難な
場合があります。
 その背景として、特別支援学級や通級による指導の対象者が増加していること、
通常の学級に在籍する発達障害のある児童生徒への教育的対応がますます求め
られていること、児童生徒の障害の状態が多様化していることなどが挙げられ
ます。
 このような状況を踏まえ、政府においては、食事、排泄、教室移動の補助と
いった学校における日常生活上の介助や、LD の児童生徒に対する学習支援、
ADHD の児童生徒に対する安全確保などの学習活動上のサポートを行う者を「特
別支援教育支援員」という広い概念で整理し、本年度から地方財政措置を行う
こととなりました。
このたび特別支援教育支援員の配置に当たって、配置のための手続きや先行
事例をまとめパンフレットを作成しました。障害のある子どもたちへの支援の
充実と、支援員を活用した学校運営の円滑化のために本パンフレットをお役立
てください。

平成19年6月

 根付くまでにはまだまだ紆余曲折がありそうだ。

2006/05/07

GWが終わる

 今日で連休も終わりになる。明日から学校だと思うと気持ちが沈み込んでしまう人もたくさんいることだろう。

 担任をもつと連休明けは恐怖の日でもある。無断欠席、早退が相次ぎ、そのまま来なくなってしまう生徒もいるからだ。
 何か悩みがあって登校できなくなるというわけではなく、生活リズムの変化が体調を崩し、体調が精神状態を乱すというパターンが多い。

 生活リズムを元に戻すのは誰でも大変だが、不登校傾向を持つ生徒は特にそれが苦手だ。うまく気持ちを切り替えて学校生活に戻ってきて欲しい。

 

 

2006/04/10

家へ帰りたい

 以前に一度書いたが、中学生の息子は遠くの街で寮生活を送っている。

 その息子の学校でフィールドワークの発表会があるというので、妻と二人で参観に行った。

 たくさんの保護者が、滅多に会えないわが子のために遠方から訪れていた。私たちは近い方だ。飛行機を使うのが当たり前であるような遠方からも、多数の生徒が来ている。

 夕方、息子を連れて空港へ見学がてら土産物を買いに行ったら、彼の同級生が、本州へ帰る母親を見送りにきていた。

 やがて、しばらく会えないであろう母親を乗せた飛行機はランプを点滅させながら夜空の彼方に消えていった。

 それを見送る少年の胸の内を思うと切なかった。まだ、13歳になったばかりだ。

私が彼の年齢なら泣き叫んでいただろう。

 

 

2006/02/23

いじめの記憶

 いじめは日本社会の特質だろうか。旧日本軍はいじめの温床だった。いじめで自殺する兵隊も多かったらしい。

 起床ラッパは「新兵さんは可哀想だね。また寝て泣くのかよ」と言ってるんだとか。

 教研の障害者教育の分科会にサポート校の教員が来ていた。サポート校にも発達障害を持った子供たちが入学するようになったためだ。

 気になる発言があった。「いじめられて不登校になった子どもたちのはずなのに、その中でいじめが発生する。障害を持ったこどもたちは対象になりやすい」という。

 近隣の街で中学生がいじめを苦に自殺した。報道は自粛されたようだが、噂が駆けめぐっている。

 私も中学時代いじめの対象になったことがある。荒れる中学校だった。廊下の天井は破られ、女性教諭の授業は成立しなかった。当然いじめもはびこっていた。プロレスごっこは昔からあった。「四の字固め」という技はいじめるためにあった。

 つらい毎日だったが、もっとも嫌だったのは親に知られる事だった。時折、「お前いじめられてるんじゃないの?」と聞かれるのがたまらなかった。強がりを言って自分を追いつめていった。あのまま同じ中学校にいたらどうなっていただろうと思う。

 幸い二年生になるときに転校した。転校先ですぐに数名の生徒から呼び出しを食らった。

 新入りを支配下に置くための儀式のようなものなのだろう。「態度がでかい」みたいなことを言って脅して来た。私はほとんど話を聞いてなかった。また、いじめられ続けるのは嫌だという思いがわき上がった。

 服従するのも嫌だった。死んでもいじめられる生活は嫌だった。殺されても戦おうと思った。相手を突き飛ばした。「何するんだ」といって止めに入ったもう一人を投げ飛ばした。一人は傾斜の急な土手を下まで転げ落ちていった。本当に死ぬ気で戦った。

 今なら新聞に載るような事件かもしれない。相手も何も言わなかったし、私も何も言わなかった。力関係はそれではっきりした。居心地のいい2年間をその中学校で過ごした。さすがに高校に行くと、そんなバカなことは起きなくなった。

 転校しなかったら私も死ぬことを選んだかも知れない。色々な記憶が失われているのに、あの一年の追いつめられた気持ちは忘れられない。

 ちょっとしか生きてないのに、そんな辛さから抜け出すことができず、孤独に死んでいった子どものことを思うと可哀想でならない。