今朝の北海道新聞の記事に衝撃を受けた。どこにでもありそうな事件で、どこでもありそうな生徒指導で一人の生徒が命を絶った。新聞に書かれている内容が真実なら、私も同じようなことをしている。いつ身の回りで、私が原因になって同じことが起きても不思議ではない。
【稚内】道立稚内商工高(川崎博正校長、三百三十七人)の二年生の男子生徒(16)が七月下旬、携帯電話サイトの掲示板に同校生徒の誹謗(ひぼう)中
傷を書き込んだことから、学校側に事情を聴かれ、その日の夜に自宅で自殺を図り、今月四日に死亡していたことが六日、分かった。
生徒は自殺直前に書き残した文章に、教諭から「死ね」などと言われたと書いている。学校側は「そうしたことは言っていない」と話している。
同校などによると、掲示板の内容が学校内で話題になっていたことから、七月二十日午後二時すぎから断続的に約三時間、男子生徒に計六人の教諭が事情を聴いた。男子生徒は「軽い気持ちで安易に書き込んでしまった」と認め、反省していたという。
男子生徒は午後五時ごろ、迎えに来た母親と帰宅。同日夜に自宅で自殺を図った。
書き残していた文章はノート三ページにわたってつづられ、自分の部屋の机の上に置いてあった。
文章には「自分は殺す。死ね。と軽々しく書いたので(中略)ケジメをつけるために死のうと思う」などという心情のほか、事情を聴かれた際の状況として「お前の罪は重いと。死ねと。他の先生からは、お前はバカか?と言われました」などと記していた。
川崎校長は「書いてあるような言葉を言ったことは一切ない。事情を聴く中で大きな声を出したことは二、三回あるかもしれないが、事情聴取
が本人を追い詰めたとは考えられない」と否定。事情聴取が三時間に及んだことについて「いじめの有無なども調べたので時間がかかった」としている。
男子生徒の父親は「息子は『死ねと言われた』と書き残したが、これらが自殺の引き金になったのではないか」と話している。
(北海道新聞のサイトhttp://www.hokkaido-np.co.jp/news/society/109695.htmlより引用)
7月14日には富良野で携帯への書き込みを注意された女子生徒が飛び降り自殺をしてかなり大きく報道されたばかりだ。
記事の中で「事情聴取が三時間に及んだこと」について問題視しているのが気になる。私も生徒指導を直接担当する分掌におり、事情聴取をすることが多いからだ。3時間くらいかかることは珍しくない。ずっと聞き続けるわけではない。複数の生徒が関係する場合は全員の話が一致するまで、交互に話しを聞くから2~3時間は必要なことが多い。いじめが絡んでいる場合は当事者同士の認識が違うからなおさらだ。ここをいい加減にするとあとあと尾を引くことになるから、決していい加減にはしない。いじめられる生徒を見殺しにするようなことになりかねないからだ。
「死ね」という書き込みを注意しているときに、「お前が死ね」と言うとは思えないが、「お前が死ねといわれたらどんな気持ちがする!」くらいの恫喝はあっても不思議ではない。私もそうするだろう。
富良野の生徒も今回の生徒についても、なぜ自殺しなければならなかったのかどうにも理解ができない。
ただ「死ね」という言葉の重さを10代の生徒はそれほど感じていないように思う。本当に「殺す」「死ね」を気楽に使う。
私が子どもの頃にもジョージ秋山のマンガに「いつか殺してやる」という台詞が使われていた。当時としては刺激が強く、子どもの間に流行して大人たちは眉をひそめたが、自然に消滅していった。あれと同じなのかもしれない。我々は過剰反応しているのだろうか。
昔と大きく違うのは、ブログや電子掲示板の存在だ。「死ね」という言葉もその場で消えてしまえば忘れ去られる。今は言葉がいつまでも生き残って広く行き渡ってしまう。「殺す」と書けば殺人予告で逮捕される時代になった。でも子どもは昔のままどころか幼稚化している。本当に軽い気持ちで書き込んだのだろう。結果として起きたことが自分の想像力を越えており「大変なことをしでかしてしまった」という不安感に襲われたのではないだろうか。
近隣の高校でも、掲示板に不愉快な内容を書き込まれたため警察に被害届を出し、同級生が逮捕されるという事件があった。
本当にこれでいいんだろうか。生徒も教員も警察も親も意識がインターネットについて行ってない。北海道新聞の報道も暗に「学校の事情聴取の執拗さ」「教師の暴言」原因説を臭わせているが、あまりにも安直だと思う。
時代に追いつかない情報教育のあり方、ネット事件に対する生徒指導のあり方、報道のあり方に多くの問題を投げかけられている。
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